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幕末の浦賀道・田中から杉田へ

わが家がある、今は建て込んだ丘の麓には、田中という昔からの部落がある。

その部落の200年来という旧家の息子故吉田さんが新入社の僕の上長だった。横浜高等工業(今の横浜国大)から東大院の人で、後々知ったことだが僕の郷里山口県長門市の藤村家の伝説的秀才のご長男故哲夫氏と東大院で同級生だった。

いずれ、このエピソードは書こうと思うが、今日の話は上長故吉田さんがよく話していた吉田家の脇を通っている小道が旧浦賀道の一つで、幕末に浦賀に来た黒船事件の折にはこの道を通る籠や飛脚を吉田さんの祖先たちが戸袋の穴から覗いていたそうである。

この浦賀道は三浦半島円海山(横浜の最高峰=153m)の西の谷間を抜ける道で、横浜のチベットと言われていた田中部落から栗木部落を経て海岸の杉田部落に抜ける起伏の激しい道だ。

元々の山越えの道は、今は深く切り立った掘割を通る長い下りのバス道で、わが家下から地図上の直距離で2kmの杉田駅までカートで迂回して3kmほどになる。

たまたまfacebookに出ていた補聴器のPRの出店が、この杉田にあるというので、晴天で暖かかった昨日、ここ十何年か車でしか行っていないこの道をカートで近道を探検してみた。

断崖に這うように建てられた住宅の間を車が縫うように走れそうな急坂を辿ってようやく峠らしいところを過ぎると、今度は来た道より鋭い折れ曲がり下り坂。

おばあさんが買い物カートを引っ張って上ってくるがきつそうだ。

洋光台の我が家の近くにある電動カートの仕様の安全登坂傾斜度10度マックスを超える唯一の坂以上だと思われる。多分、この道は洋光台の急坂以上で、北海道でのスキーの時の20度近い傾斜がありそうで帰りはきっとカートでは登れない!

やっとの思いで探検道から広い道に出ると、なんと、杉田への長い道の取り付きの上り部分、浜中学入り口バス停手前で長い下り坂はまだ残っている。苦労の割には近道ではなかった。

探し当てた補聴器屋さんのご主人に計測や話を聞いた後、もっと西側に山越え道はないかと探検したが、前から承知の京急線路踏切の道しかないだろうと諦めて、本来の栗木の遠回り道で帰った。

ちなみに我が家のある丘は、伝説的な間宮氏の笹下城の跡があり、洋光台開発前の旧跡調査がなされていない幻の城下になった。間宮家からは探検家間宮林蔵、人体図譜の杉田玄白が出たという。