詩人秋野さち子の詩 Ⅳ(1972~1983)
「入り江に」
一本の樹が燃えつづけている森へ
心は傾いてゆくだけだ
道は腸のように曲がりくねっているが
ゆきつくのは炎の樹
炎はくさび形にゆらめいて
血液の襞にするりとすべり込み
咽喉の奥に蠢いている
白い棘をひきぬいてくれる
海がひらけてきた
夕陽のきらめきが炎に似ているから
森が海に変貌してしまったのか
ふりかえると 森はもう一羽の黒鳥 入江の岸にたたずむと
残照の鮮血が瞳の奥を焦がしはじめた
木もれ陽を縫って森へいそいだ
遠い日のせせらぎが
静かによみがえってくる
詩人秋野さち子の詩 Ⅳ(1872~1983)
「綴じてない詩集」
抱えていて
ふと とり落とすと
パラパラの紙片になてしまう
そこに数行の詩句があるだけ
風が吹いたらどこまでも飛んでいってしまう
そこには綴じてないから扉がない
だから守ることができない
傷みからも紛失からも
といって何処に求めたらよいか
標榜の嵐や裏切りの亀裂にも揺るがない扉と
あの人につながれた糸のような綴じ紐を
文房具店の前を素通りして
詩集は私の窓辺におこう
心ある風がつれてゆくなら
私の詩片よ
スモッグのない深い空をとんでゆけ
西の国の厚い灰色の壁にはりつき
戦場の街ではいたいけな瞳を覗き
イムジン江を越えて
心のふるさとと呼ぶ北の朝の国へ
更にその上に自分が自分である為には
愛する人にわかってもらえと
湧き上がる積乱雲にぶちまけるがいい
秋野さち子全詩集Ⅳ(1972-1983)より
「狂い」
額田の王の話を聞いた帰り道
「そうしてはいけないかしら」
夫子のある若い女(ひと)は
ボールを投げて来た
夫子あるなしより
狂いの軽重ではないのか
近景は走り去り
遠景はゆっくりその姿を見せている
愛と言わずに恋と言わずに
狂いと言う わたしの遠景
「泣くのも笑うのもあなたなのだからー」
ボールを投げ返した
燃えるものを揚げなければ
行く手の冥い道へ
日々わたしも静かに発狂していく
詩人秋野さち子の詩
秋野さち子全詩集の年譜によると彼女は1912年明治45年に旧北朝鮮に生まれ小学に入学したが東京の兄のもとに来て千駄ヶ谷第2小学校に転校し関東大震災に遭い2年後に同校を卒業した。
4月に朝鮮平壌の両親の元に戻り平壌の高等女学校に入学し、文学に目覚めた。
在学中に父が倒れ石川県大聖寺高女に転校するも父が病死。
進学が許されず1930年ころから肺浸潤に侵されながら西城八十先生主宰「蝋人形」誌に投稿を始めた。
「帆」
すでに病みあれば
いゆるを求めず
ひたすらに求めざれば
いゆる事なし
とりどりのなぐさめも
はかなき波の
笑みてうけざれば
風をともなふ
それとても世のならひ
もとより知れり
ひとり泛む
帆はうなづきぬ
悲しみは岸にあり
見守るひとつの眼あれば
帆は白く
病みつつ 今日も
詩集「白い風」1954年より
詩人秋野さち子の詩紹介
奇しくも今のコロナ禍に匹敵する大正のスペイン風邪で父(僕の祖父)を失った12歳の僕の父が独り京城の叔母の嫁ぎ先中村家に渡り、そこの兄弟姉妹と一緒に育て貰ったので僕には本当の叔父叔母に当たる。その一番若い叔父中村秀雄氏が秋野さち子の夫君であった。2004年11月12日92歳で亡くなった後、秀雄叔父が心血を注ぎ全詩集を上梓した。本稿は先行きを悟った僕が最後に伝えておきたい詩人秋野さち子の作品の数々である。
夢雪
曇り日かとばかり
めしひた白い午後の日射し
おしろい花のうす紅も色あせて
丈高いひまわりと
カンナの赤いうなじのほとり
湿度高い風が行く
のろのろと舌たれた犬のうしろから
幅廣いマントひろげた熱い風
あ、雪
チラ チラ と雪が来た
白けた木々の葉の上
夏草の茂みの上
うす白く土を覆ひ
雪 雪が
サヤサヤと少しななめに
とじた瞳の上に次第に強く落ちて来る
この薄明かりはあさあけか
夕ぐれでもかまわない
満天にそよぐ星の風
美しい階段を登ってゆく
これはハンネレの昇天に似てゐないか
憤りもかなしみをも
遠ざけることのなんといふたのしさか
まさぐる冷たさと清けさを
世の中の浄化になどとは考へない
心の時間の外にある
このひとときのしじま
(詩集「白い風」1954より)