'21-2-2 詩集「夕茜の空に」より
上弦の月
「詩人は月に一度か二度、死について考える」
どこかで聞いた言葉だが
若い時から私はもっと繁く
事あるごとに死に親しまれてきたようだ。
それが今、平均年齢を越えて
まだうろうろしている。
聞けば誰でも、瞬間
ちょっと身じろぐ名前の病名をもらって
生き甲斐ではないが
死に甲斐のような
平安な似た気持ちになっている
まだ痛みが来ない所為かもしれない。
見上げる晩秋の青い空に浮かんでいるのは
向こうが透けて見える
淡く白い上弦の月
あの向こうは何だろう
この静けさは何だろう
過ぎた戦の日々に
生き甲斐を抱いて散ったいのちを思い
誰をも身じろがせる死に甲斐に添えて
老いた心は、せめて
同じ病のいのちへの平安を祈りたい。
風は銀河を渡ってくるのだろう
こんな夕に
私の脳髄や皮膚がはがれて
夕風の中を舞い上がってゆけばいい
気障でなく
書きかけた詩のひとひらをのせて―
'21-1-30詩集「夕茜の空に」より
白い館 2
ここにも、赤い三角形を
三つあしらった標識がある。
この標識に囲まれた白い館が
わたしのいのちの城なのか。
まずは、型とりの儀式、
十三階段ではないが
五つ六つの階段を
横たわるシェルターでは
薄衣に似たガウン一枚の裸身に添って
発泡スチロール状の片々が隙間を埋める。
白衣の人達の優しいしぐさで
眼は覆われる。
やがて、すべての気配が遠のいた頃
暖かい霧がしのび寄り
次第に熱をともなってくる
これが棺の中の焼却炉の道筋か、
覆われた瞼の向こうは
暗いようで明るい
飛び立つ前に聞こえるものは
空へのともづな揺れのようだ
どれほどかの経緯があり
鳥にはなれなくとも
昏れない空の
等身大の鋳型に向き合わねばならない。
'21-1-27詩集「夕茜の空に」より
「白い館」ー重粒子線棟
誰に決められたのか、知ろうともしないで
長い長い廊下を通って
地下へ地下へと下り
誰もいないこの白い壁に囲まれた室内に
何故か、不安氣もなく
わたしは坐っている。
応接間のような優しいソファと
椅子が何脚かあり
白い壁に絵がかけられいて
それがルネ・マグリットに似ているからか
似ているように思うからか。
誰かがわたしの背を
車椅子の背を押してきて、いなくなった。
私は透明な気体になったようだが
あの細胞達は目覚めているか。
何を待っているのか、言葉が溶けても
心では問いかけることが出来る
いのちの空洞の中で
透明な気体のみじろぎは自由なようだ。
それでは、あのい長い廊下は
彼岸への渡殿だったのか。
だから、誰もいないこの白い空間に
不安氣もなく
わたしは坐っている。
'21/1/25詩集「夕茜の空に」より[小豚に乳首を」
[小豚に乳首を」
[小豚に乳首を」
片手に自分の子供抱き
もう片方に抱えた
親を亡くした子豚の口に
ふくよかな乳房をふくませて
授乳するグアジャ族の母親、
この写真を新聞紙上に見た時、胸がつまった。
悲しくも私には授乳の経験はないが
見つめていると自分の乳首に疼きを感じる。
豚の乳を貰ったことはないが
牛や羊からは
人間は沢山の乳を貰っている、
けれど牛や羊に乳のお返しをしただろうか
そして豚の子供に
直に自分の乳房をふくませるとは―
この哀しいまでの優しさに私の胸はせまる、
このストレートな想いを
甘いと笑うものはないはずだがー
今 この現実があったら
私はなにをしただろう
何かを与えようとは考えていても
自分の乳首をふくませるだろうか
我が子も子豚も
同じ地球に生きる仲間として
暖かく抱くこの母親の前で
身内をよぎる戦慄は 私に恥ずかしさを教える。
この母親は、 私のひそかな願いを入れて
今日も、小さい庭のしたる藤の花房のもとに
魂をゆするその姿態をただよわせている。
Ⅲ(1956-1968)より「塀」
「塀」
塀にそって歩いてゆく
長い塀 角をまわって塀はつづく
塀には落書きがしてある
爪あとがある ペンキがぬりたくってある
それを撫でて歩いていると
ふと 塀にばかり添って歩いていることを忘れている時がある
このかこまれた塀の中は
ひとまわりしてまた元にもどってゆくようだ
けれど落書きは違っている
ペンキの色も複雑になった
坂があったり階段があったり
だから塀は限りなく高く感じたり
苦もなく飛び越せそうに思えたり
ここに深くえぐられた爪あとがある
爪あとに爪をあてゝえぐって見る
爪に食い込む石のかけら
爪は痛い 疼いて血が流れる
しかし 小さな穴をあけなければならない
亀裂の生じるピシッという音が聞きたい